魔法の笛と銀のすず
99年から2004年2月の更新停止までネット上で異質な光を放っていたWeb日記サイト。
2004年2月に日記を書いていた管理人のしのぶさんは亡くなられました。
その死を自分の中に受け入れる為に、15年経ってしのぶさんの事を少し書きます。
個人的な感傷が多く入る事もあり以下の文章は当時のしのぶさんを知る人向けの文章となります。
99年から2004年2月の更新停止までネット上で異質な光を放っていたWeb日記サイト。
2004年2月に日記を書いていた管理人のしのぶさんは亡くなられました。
その死を自分の中に受け入れる為に、15年経ってしのぶさんの事を少し書きます。
個人的な感傷が多く入る事もあり以下の文章は当時のしのぶさんを知る人向けの文章となります。
この話をするためにはいくつもの恥じらいを捨てなければいけないので非常に困難なのですが、なんとか書いてみます。
僕は受験時代に躁状態からの統合失調症に陥ってしまいその後は辛い闘病生活が続きました。
最近になってそれがASD(発達障害)から来る二次障害でもあると判明するのですが、当時はただただ失意のどん底でほぼ寝たきりの生活を続けていました。
その頃に知ったのがしのぶさんの魔法の笛と銀のすずでした。
多くは語りませんが、僕はしのぶさんの文章に魅入られました。
リビングの小さな部屋と日々更新されるしのぶさんの日記がほぼ世界のすべてという時期が続きました。その時にしのぶさんの心の綺麗さとその儚さ、危うさに惹きつけられました。
多少回復して、出歩ける様になってからも日記を読む事は日々の楽しみでした。
しかし、日記を読んでいると、しのぶさんの危うさは日を追うごとに増しているかのようでした。
具体的な例を出すなら、2001年10月まで「鬱と電波と萌えな日記」もしくはtitle部分に「diary」とあったサイトのタイトルは度々変化しつつ「棺の中の楽園」と名前を変えました。
>2003年7月28日(月)
>私は砂糖菓子で出来た世界に住みたいのですよ
更に手前勝手な解釈でもって以下の文章は書かれていきますが……この頃から彼は現実に救いを求める事を完全に放棄して、日々ただ日課として現実生活を送りながら、自らの棺に籠もって砂糖菓子で出来た世界と戯れる……そんな日々を送り始めたのだと思っています。
だから僕は、「棺の中の楽園」というタイトルを見る度に言いようのない悲しさを感じていました。これが、自分勝手な価値観でもって、いい方へ変わらないかと祈りながらサイトにアクセスしていた事を覚えています。
そして、その祈りも絶えた頃に、他のこの日記を読む人たちはこのタイトルをどう感じているのだろう……とも思いました。
2003年6月8日の日記を読んだ時「ああ、今の僕と全く同じだ」と感じ、衝動的にしのぶさんへメールを出してしまいました。しのぶさんとやりとりしたメールは、他の多くの大切なメールと共に喪失してしまったのですが、その時のメールに
>「いずれにせよ、自分の立っている場所を見つめて、抜け出したいという気持ちを持つことがおそらく最初の一歩になるはずで、そういう意味では私もR-NOTEさんも今同じ地平に立っているのかもしれません。」
とありました。
この時は、ああ彼も、この閉塞した状態から抜け出したいのだと、社交辞令的共感を述べて頂いたとしても嬉しく、また悲しく思いながらも、大丈夫だと思っていました。
そして徐々に日記の更新が滞りがちになります。それでも数日後だとかにまとめて溜めていた分すべての日を更新されていたので、まだ油断していました。
けれど、2003年10月に突然ぱったりと更新が止みます。どうしたのだろう。まさか本当に……そう思いつつ毎日様子を伺っていると一週間後の10月13日に日記が更新されました。自殺する予定だったがやめたという旨を記す日記と共に。
>もうちょっとだけ頑張って生きてみることにします。
>死にたくなったら…いやそうではなくて、今度こそ生きることはこれ以上はもう不可能だという地点まで行ってしまったら、黙って消えます。
これが今のしのぶさんの位置なのだと。
ギリギリの淵で耐えている。
どうすることも出来なかった。それでも自分に何か出来ないかと考えた。
生きる理由がないなら、生きる理由を自分が作れないかと思った。
ただ勝手にメールを出した。
手間を取らせぬ様、本人が返信をするべきか否か悩むと書いていた事があったから返信はいらないと明記した。そして一月ほどしたらまたメールを出しますと書いた。
生きる理由がないのなら、私が出すメールを受け取る為に生きていてくれませんか
そういうメッセージだった。
後から考えれば、それが逆に重荷になっていてもおかしくはない。
あまり正常な思考ではなかったと自分でも思う。それぐらい必死に彼が、しのぶさんが死ぬのを止めたかったし、しのぶさんが死ぬということを切実に感じていた。
だから、2004年2月19日の手紙を見た時にギョッとしたし、2004年2月22日の更新で、あの海の画像を見てほとんど確信があった。
「しのぶさんは本当に自殺してしまったのではないか」
信じたくなかった気持ちだけで必死に否定し、ひたすら日記が更新されるのを待つ日々だった。
もう手元にメールが残っていないので正確な日付が分からないが、ずっと更新されない日記にしびれを切らして2004年の何月かにメールを出した。
この時は、きっとしのぶさん本人から返信が来るはずだと思っていた。
しばらくすると返信が来た。しかし文体がしのぶさんらしくない。
またどこかよそよそしい雰囲気もある。
だから、しのぶさん御本人ですよね?と返した様に記憶している。
それに対する回答は、もうご存知とは思いますがしのぶは亡くなりました、という返答だった。
この文章を読んだ時泣き崩れた事を今でもよく覚えている。
嫌な予感はそのままその通りだった。
2002年9月21日(土)の日記に
>この世のどこかに、雪さんに会いに行きますとの遺書を残して自らの命を絶つような人がひとりぐらいはいてもおかしくないような気がする…
とある。
彼は、過去に自分が思った信念の通りに、2月19日に彼女宛に遺書を残して消えて行ったのだと、そういうことだった。
しのぶさんを想って、日記をまとめて書籍が発行される事になったという。
それに伴って、しのぶさんを慕う皆さんの言葉をまとめた簡単な冊子を作成するという。
それに自分も寄稿させて頂いた。
そして、無理を言って2005年の2月にしのぶさんのお墓参りに行かせて頂く事にした。
当時病状は悪かったので、父に頼んで連れて行ってもらった事を覚えている。
その時、ご友人がお墓へ案内して下さった。
ただ、会った事もない、メールを数通やりとりした仲であるにもかかわらずお墓参りまで来るというのには訝しまれもしたのだろう。
「本当に会った事はなかったんですか?」
と何度か聞かれた。
「毎年5月頃に一人で名古屋に行っていたんですが……」
と。
今考えれば訝しまれるのは当然なのだが、当時の自分には周りからは奇異に映る行動をしているという事が今ひとつ分かっていなかった。
それなのに受け入れて下さったお父様お母様ご友人に深く感謝致します。
自分の人生の中で最も辛い1年を、ある種共に過ごしたという、勝手な親近感があったのだろう。
2月19日の日記を遺書と呼んだらご友人が驚いて、端末で確認していた事を覚えている。
そして、こちらは記憶がおぼろげだけれども、後からお父様から
しのぶさんの事は皆「(日記に)書いてあった」と僕が言ったけれど、それがご友人にとってはショックだった様だ、とも。
また、2004年2月10日の日記から
>僕が何かに感動した時、その感動は完全に個人的なもので、誰かにそれを伝えることはできません。ましてや共感を望むなど途方もないことです。
>(中略)
>もちろんこれは彼の罪だとは言えません。僕の感動は僕だけが理解できるものだからです。僕は孤独たることをもっと学ばなくてはなりません。
とあって。
ご友人氏に、2月19日の遺書に「物語は、現実に”在った”出来事とに本質的違いなどない」という様な事が書かれていて、だから彼はそれらの思い出を抱いて”幸せに”消えていったのだと思うという話をしたら、「彼は昔、20代の頃孤独という事について深く考えている様だった」と仰っていた。
自分の「感動」は他人とは共有不可能だという事。その孤独について想いを馳せていたのかもしれない。
合同誌と書籍が届き、しのぶさんのお墓参りが終わった事で僕としのぶさんとの関わりは終わった。これ以上は何も出来事は起こらない。だが日々は続いていく。
それ以後も様々な事が起こったが、その度しのぶさんの言葉を思い出したりする日々だった。
僕の記憶からしのぶさんが消えるのは当分先だと思う。
しのぶさんについての事は、他者と共有することがむつかしい。
しのぶさん本人の感覚もそうだし、僕の行動も感覚も、常識的には理解し難い事はわかる。
常識的に理解されないと知りつつ、そういった繊細な感覚を持って生きるのは辛かった。
鈍感になったり気づかないフリをしたり、自分を変化させて生き続けた。それが上手く行かなかった事を多くの失敗の理由にはしないけれども。
元より自殺は好まない主義だが、しのぶさんが自殺した事で、なぜだか僕の中には自殺はしないという決意が出来た。不思議な感覚ではあるが、どんなにどん底まで凹んでも自殺はしまい、そう思い生き続けた。
いくつものトラウマが出来、過去を忘れながらなんとか日々をやり過ごした。
そのトラウマの一つであるしのぶさんの死とこうして向き合えるようになった。
その他のトラウマ達とも向き合えるようになった事で、他者の死を受け入れて乗り越えたいという気持ちが湧いた。
15年が経っていたけれども、雪駄氏と連絡を取る事が出来たおかげで相談に乗って頂け、雪駄氏を通して文月そらさんともやりとりをさせて頂く事が出来た。
こうしてしのぶさんについての記憶をまとめる事で、一つの整理がついたかもしれない。
僕がどう変化していったとして、しのぶさんがそれをどう感じるかは分からないけれど。
しのぶさんの文章からは様々な考え方と共に物語や作品に対する姿勢を学ばせて頂いた様に思う。
それが現実を生きやすくするとは思わないけれど、僕はこの生き方が好きだ。
だから、きっといつまでもしのぶさんを思いながら生き続けるのだと思う。
2020年11月20日追記
2002年11月1日(金)の日記から
>常々思うのですが、私は自分が死ぬということそれ自体は正直それほど恐いという訳ではない。死ぬことはもったいないとは思うけれども。ただ、私が仮に自殺したとしてその後、両親や友達やネット上での多数の知り合いに「あの人は不幸だった」と思われることは本気で恐い。たぶん人生においてこれ以上恐いことはあり得ないんじゃないかと思うぐらい恐い。「あの人は不幸だった」と思われるということは、私の人生を否定されているのと同義なのです。例えば私が自殺したとしたら、私はもうこれ以上生きることが致命的に不可能であるというところまで辿り着いてしまったということなのかもしれない。でもそれはひとつの結末にすぎないのであって、誰も覚えていないとしても、それまでの何十年かの人生の間には、辛いことと同じくらいの数だけ、楽しいことだってたくさんあったのです。そういうものすべてをひっくるめて私の人生なのであって、結末だけであの人は~なんて思われたくない。それだけは耐えられない。まず何よりも先に、私は私という人間が生きていたという事実を認めて欲しいと思う。
彼もまた自殺という人生の終わり方をしたけれど、やっぱり彼は不幸であった訳ではない。それは、当時から知っていた。ただ理不尽だなという思いは消えないけれども。
僕は受験時代に躁状態からの統合失調症に陥ってしまいその後は辛い闘病生活が続きました。
最近になってそれがASD(発達障害)から来る二次障害でもあると判明するのですが、当時はただただ失意のどん底でほぼ寝たきりの生活を続けていました。
その頃に知ったのがしのぶさんの魔法の笛と銀のすずでした。
多くは語りませんが、僕はしのぶさんの文章に魅入られました。
リビングの小さな部屋と日々更新されるしのぶさんの日記がほぼ世界のすべてという時期が続きました。その時にしのぶさんの心の綺麗さとその儚さ、危うさに惹きつけられました。
多少回復して、出歩ける様になってからも日記を読む事は日々の楽しみでした。
しかし、日記を読んでいると、しのぶさんの危うさは日を追うごとに増しているかのようでした。
具体的な例を出すなら、2001年10月まで「鬱と電波と萌えな日記」もしくはtitle部分に「diary」とあったサイトのタイトルは度々変化しつつ「棺の中の楽園」と名前を変えました。
>2003年7月28日(月)
>私は砂糖菓子で出来た世界に住みたいのですよ
更に手前勝手な解釈でもって以下の文章は書かれていきますが……この頃から彼は現実に救いを求める事を完全に放棄して、日々ただ日課として現実生活を送りながら、自らの棺に籠もって砂糖菓子で出来た世界と戯れる……そんな日々を送り始めたのだと思っています。
だから僕は、「棺の中の楽園」というタイトルを見る度に言いようのない悲しさを感じていました。これが、自分勝手な価値観でもって、いい方へ変わらないかと祈りながらサイトにアクセスしていた事を覚えています。
そして、その祈りも絶えた頃に、他のこの日記を読む人たちはこのタイトルをどう感じているのだろう……とも思いました。
2003年6月8日の日記を読んだ時「ああ、今の僕と全く同じだ」と感じ、衝動的にしのぶさんへメールを出してしまいました。しのぶさんとやりとりしたメールは、他の多くの大切なメールと共に喪失してしまったのですが、その時のメールに
>「いずれにせよ、自分の立っている場所を見つめて、抜け出したいという気持ちを持つことがおそらく最初の一歩になるはずで、そういう意味では私もR-NOTEさんも今同じ地平に立っているのかもしれません。」
とありました。
この時は、ああ彼も、この閉塞した状態から抜け出したいのだと、社交辞令的共感を述べて頂いたとしても嬉しく、また悲しく思いながらも、大丈夫だと思っていました。
そして徐々に日記の更新が滞りがちになります。それでも数日後だとかにまとめて溜めていた分すべての日を更新されていたので、まだ油断していました。
けれど、2003年10月に突然ぱったりと更新が止みます。どうしたのだろう。まさか本当に……そう思いつつ毎日様子を伺っていると一週間後の10月13日に日記が更新されました。自殺する予定だったがやめたという旨を記す日記と共に。
>もうちょっとだけ頑張って生きてみることにします。
>死にたくなったら…いやそうではなくて、今度こそ生きることはこれ以上はもう不可能だという地点まで行ってしまったら、黙って消えます。
これが今のしのぶさんの位置なのだと。
ギリギリの淵で耐えている。
どうすることも出来なかった。それでも自分に何か出来ないかと考えた。
生きる理由がないなら、生きる理由を自分が作れないかと思った。
ただ勝手にメールを出した。
手間を取らせぬ様、本人が返信をするべきか否か悩むと書いていた事があったから返信はいらないと明記した。そして一月ほどしたらまたメールを出しますと書いた。
生きる理由がないのなら、私が出すメールを受け取る為に生きていてくれませんか
そういうメッセージだった。
後から考えれば、それが逆に重荷になっていてもおかしくはない。
あまり正常な思考ではなかったと自分でも思う。それぐらい必死に彼が、しのぶさんが死ぬのを止めたかったし、しのぶさんが死ぬということを切実に感じていた。
だから、2004年2月19日の手紙を見た時にギョッとしたし、2004年2月22日の更新で、あの海の画像を見てほとんど確信があった。
「しのぶさんは本当に自殺してしまったのではないか」
信じたくなかった気持ちだけで必死に否定し、ひたすら日記が更新されるのを待つ日々だった。
もう手元にメールが残っていないので正確な日付が分からないが、ずっと更新されない日記にしびれを切らして2004年の何月かにメールを出した。
この時は、きっとしのぶさん本人から返信が来るはずだと思っていた。
しばらくすると返信が来た。しかし文体がしのぶさんらしくない。
またどこかよそよそしい雰囲気もある。
だから、しのぶさん御本人ですよね?と返した様に記憶している。
それに対する回答は、もうご存知とは思いますがしのぶは亡くなりました、という返答だった。
この文章を読んだ時泣き崩れた事を今でもよく覚えている。
嫌な予感はそのままその通りだった。
2002年9月21日(土)の日記に
>この世のどこかに、雪さんに会いに行きますとの遺書を残して自らの命を絶つような人がひとりぐらいはいてもおかしくないような気がする…
とある。
彼は、過去に自分が思った信念の通りに、2月19日に彼女宛に遺書を残して消えて行ったのだと、そういうことだった。
しのぶさんを想って、日記をまとめて書籍が発行される事になったという。
それに伴って、しのぶさんを慕う皆さんの言葉をまとめた簡単な冊子を作成するという。
それに自分も寄稿させて頂いた。
そして、無理を言って2005年の2月にしのぶさんのお墓参りに行かせて頂く事にした。
当時病状は悪かったので、父に頼んで連れて行ってもらった事を覚えている。
その時、ご友人がお墓へ案内して下さった。
ただ、会った事もない、メールを数通やりとりした仲であるにもかかわらずお墓参りまで来るというのには訝しまれもしたのだろう。
「本当に会った事はなかったんですか?」
と何度か聞かれた。
「毎年5月頃に一人で名古屋に行っていたんですが……」
と。
今考えれば訝しまれるのは当然なのだが、当時の自分には周りからは奇異に映る行動をしているという事が今ひとつ分かっていなかった。
それなのに受け入れて下さったお父様お母様ご友人に深く感謝致します。
自分の人生の中で最も辛い1年を、ある種共に過ごしたという、勝手な親近感があったのだろう。
2月19日の日記を遺書と呼んだらご友人が驚いて、端末で確認していた事を覚えている。
そして、こちらは記憶がおぼろげだけれども、後からお父様から
しのぶさんの事は皆「(日記に)書いてあった」と僕が言ったけれど、それがご友人にとってはショックだった様だ、とも。
また、2004年2月10日の日記から
>僕が何かに感動した時、その感動は完全に個人的なもので、誰かにそれを伝えることはできません。ましてや共感を望むなど途方もないことです。
>(中略)
>もちろんこれは彼の罪だとは言えません。僕の感動は僕だけが理解できるものだからです。僕は孤独たることをもっと学ばなくてはなりません。
とあって。
ご友人氏に、2月19日の遺書に「物語は、現実に”在った”出来事とに本質的違いなどない」という様な事が書かれていて、だから彼はそれらの思い出を抱いて”幸せに”消えていったのだと思うという話をしたら、「彼は昔、20代の頃孤独という事について深く考えている様だった」と仰っていた。
自分の「感動」は他人とは共有不可能だという事。その孤独について想いを馳せていたのかもしれない。
合同誌と書籍が届き、しのぶさんのお墓参りが終わった事で僕としのぶさんとの関わりは終わった。これ以上は何も出来事は起こらない。だが日々は続いていく。
それ以後も様々な事が起こったが、その度しのぶさんの言葉を思い出したりする日々だった。
僕の記憶からしのぶさんが消えるのは当分先だと思う。
しのぶさんについての事は、他者と共有することがむつかしい。
しのぶさん本人の感覚もそうだし、僕の行動も感覚も、常識的には理解し難い事はわかる。
常識的に理解されないと知りつつ、そういった繊細な感覚を持って生きるのは辛かった。
鈍感になったり気づかないフリをしたり、自分を変化させて生き続けた。それが上手く行かなかった事を多くの失敗の理由にはしないけれども。
元より自殺は好まない主義だが、しのぶさんが自殺した事で、なぜだか僕の中には自殺はしないという決意が出来た。不思議な感覚ではあるが、どんなにどん底まで凹んでも自殺はしまい、そう思い生き続けた。
いくつものトラウマが出来、過去を忘れながらなんとか日々をやり過ごした。
そのトラウマの一つであるしのぶさんの死とこうして向き合えるようになった。
その他のトラウマ達とも向き合えるようになった事で、他者の死を受け入れて乗り越えたいという気持ちが湧いた。
15年が経っていたけれども、雪駄氏と連絡を取る事が出来たおかげで相談に乗って頂け、雪駄氏を通して文月そらさんともやりとりをさせて頂く事が出来た。
こうしてしのぶさんについての記憶をまとめる事で、一つの整理がついたかもしれない。
僕がどう変化していったとして、しのぶさんがそれをどう感じるかは分からないけれど。
しのぶさんの文章からは様々な考え方と共に物語や作品に対する姿勢を学ばせて頂いた様に思う。
それが現実を生きやすくするとは思わないけれど、僕はこの生き方が好きだ。
だから、きっといつまでもしのぶさんを思いながら生き続けるのだと思う。
2020年11月20日追記
2002年11月1日(金)の日記から
>常々思うのですが、私は自分が死ぬということそれ自体は正直それほど恐いという訳ではない。死ぬことはもったいないとは思うけれども。ただ、私が仮に自殺したとしてその後、両親や友達やネット上での多数の知り合いに「あの人は不幸だった」と思われることは本気で恐い。たぶん人生においてこれ以上恐いことはあり得ないんじゃないかと思うぐらい恐い。「あの人は不幸だった」と思われるということは、私の人生を否定されているのと同義なのです。例えば私が自殺したとしたら、私はもうこれ以上生きることが致命的に不可能であるというところまで辿り着いてしまったということなのかもしれない。でもそれはひとつの結末にすぎないのであって、誰も覚えていないとしても、それまでの何十年かの人生の間には、辛いことと同じくらいの数だけ、楽しいことだってたくさんあったのです。そういうものすべてをひっくるめて私の人生なのであって、結末だけであの人は~なんて思われたくない。それだけは耐えられない。まず何よりも先に、私は私という人間が生きていたという事実を認めて欲しいと思う。
彼もまた自殺という人生の終わり方をしたけれど、やっぱり彼は不幸であった訳ではない。それは、当時から知っていた。ただ理不尽だなという思いは消えないけれども。
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
いらっしゃいませ。コメントを、ありがとうございます。
まさか管理人様からコメントを頂けるとはつゆほども思っていなかったので大変恐縮であり、光栄であります。
あの頃多くの方が連絡を取り合い、しのぶさんの生きた軌跡を残そうとした事こそしのぶさんの影響力の大きさを示すものであり、また稀にに見る出来事だと思います。
先にTwitter上で告知をした際も雪駄さんに拡散してもらったら即座に9RTされた事も、彼が未だにたくさんの人達の中で生きていることをよく表していると思います。
ネットの海の中で漂いながら、多くの中に埋没する星の一つとしてあり続けて下さる事は素敵なことと思います。僕自身も「納得できる人生」であるよう日々精一杯生きていきたいと思います。
まさか管理人様からコメントを頂けるとはつゆほども思っていなかったので大変恐縮であり、光栄であります。
あの頃多くの方が連絡を取り合い、しのぶさんの生きた軌跡を残そうとした事こそしのぶさんの影響力の大きさを示すものであり、また稀にに見る出来事だと思います。
先にTwitter上で告知をした際も雪駄さんに拡散してもらったら即座に9RTされた事も、彼が未だにたくさんの人達の中で生きていることをよく表していると思います。
ネットの海の中で漂いながら、多くの中に埋没する星の一つとしてあり続けて下さる事は素敵なことと思います。僕自身も「納得できる人生」であるよう日々精一杯生きていきたいと思います。
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